The 対談

「東日本大震災から丸3年」宮城県の復興を考える対談

「東日本大震災から丸3年」宮城県の復興を考える対談

宮城県 震災復興・企画部 情報産業振興室 室長 小松直子氏と、当社執行役員副社長 平尾千秋が、東日本大震災から丸3年経過した現在の宮城県について、語り合いました。

◆掲載日: 2014年 3月11日

平尾 2011年3月11日14時46分18秒、突然起こった大惨劇でした。小松さんはどこにいらっしゃいましたか?

小松 仙台市の地下鉄「旭ヶ丘駅」におりました。列車の中で大変大きな揺れを感じ、乗客の方からキャーっという声が聞こえ、周りにつかまっていました。地上ではありませんから、どの程度の揺れなのか実際には意外とわかりませんでした。すぐに宮城県庁(以下、県庁)に戻ってみると、職場はとんでもない状態でした。

平尾 交通手段は相当麻痺していたと思います。どのようにお戻りになったのですか?

小松 地上に出ると、信号が全部消えていました。警察官が交通整理をし、そこから県庁まで歩きました。戻る途中では、学校に防災頭巾をかぶったお子さまやご近所の方々が集まっていたり、ビルの中から人々が出てきたり、といった状況でした。宮城県沖地震に備えてしっかり建築した建物が多かったので、ひどく崩れたという被害はほとんどありませんでしたね。ただ、余震が続き、かなり揺れている一時の混乱の中、1時間程度かけてなんとか歩いて県庁に戻りました。

平尾 県庁の様子はただならぬ騒ぎという感じでしたか?

小松 キャビネットからは全部書類が落ち、机からはパソコンも転がって、本当に何が起こったのかわからないという状況でした。

平尾 当社(東京都渋谷区)のオフィスもかなり揺れていました。私は執務室におりまして、横にあった本棚が倒れそうになり押さえていました。すぐ揺れがおさまるかと思っていましたが長く続き、やっとおさまってから「みんな大丈夫か?」と聞いてまわりました。そうしているうちに震源地が仙台に近い三陸沖であることがわかり、すぐ仙台にあるコールセンターの社員から連絡がありました。携帯電話が繋がらなくなってしまったので内線電話でかけてきてくれて「状況を確認中」であると。私もすぐに報道番組を観ましたが、情報が錯綜していました。いったい何が起きたのか、わからない状況でした。次に仙台コールセンターの社員から「社内はとにかく物が落ち、転がって大変な状況のため、外に退避しました」と連絡がありました。東京も余震が続き2回目の大きな揺れが起きた後、建物の外に退避しました。余震がおさまった頃、オフィスに戻り仙台の通信網の確認を進めているうちに、津波が襲ってきて大変な状況になってしまいました。とにかく、何が起きたのかを把握することがとても大変でした。

小松 通信網が遮断されると情報収集ができませんよね。情報収集ができないということは、つまり大被害であるということですからね。

平尾 当社では地震後すぐに「緊急対策本部」が設置され、私は本部長としてその後の総合判断・指示をする立場になりました。とにかく第一優先は安否確認で進めましたが、ずいぶん時間がかかりました。

小松 宮城県内は7つの地域があり、それぞれ合同庁舎があります。石巻と気仙沼の合同庁舎とは連絡がまったく取れませんでした。1時間おきに災害対策本部を開きますが、職員の安否は「不明」という状況が3~4日続きました。石巻と気仙沼は全部水没してしまったために孤立していたのです。本当に行政としても機能できないような状況と言いますか…。いろんな意味で大変な状況でしたね。

平尾 大震災直後は、とにかく目の前のことに対して次々に対処していかれたと思います。今、少し落ち着かれて、今後どのような復興への取り組みを考えていらっしゃいますか?

小松 復旧だけではなく復興までかなりの時間がかかるということが震災直後から見えましたので、2011年4月に宮城県としての震災復興方針を定めました。そして、10カ年の計画を2011年10月に作成しています。まず3年間は建物や道路など最低限の機能を戻すための「復旧」をし、次の4年間で「再生」、残りの3年間で「発展」といった3つのフェーズに分けています。今月で丸3年ですが、最低限の機能は戻りつつあります。今年4月から「再生期」に入ります。まだ仮設住宅に暮らしている方々が9万人程度いらっしゃいますので、その方々を元の暮らしに戻したい。本格的に支援していかなければならない状況ですね。

平尾 今後支援をしていく中で、特に力を入れて取り組む必要があると感じる問題を教えていただけますか?

小松 最低限のインフラは復旧しておりますが「被害者自身の生活に関わる復興住宅の整備が進んでいない」ということが1番の問題です。復興住宅完成の割合が2%という現状なのです。本当は早く安心して暮らすことのできる良好な生活環境で過ごしたいと願っている方々が多いと思いますが、土地がなくこれから嵩上げをしなければならないなど、いろいろな問題があり進んでいない状況です。もう1つは「雇用問題」です。徐々に求人倍率は高くなってきてはいますが…。

平尾 まだまだ求人が少ないということですか?

小松 沿岸部は町全体がなくなってしまったので、以前あった工場や事業所が再建できていません。すると、そこで働いていた方々はほかの市町村で働いたり、または働くこと自体を辞めてしまったり。地元に工場や事業所が新たに建てば、そこで一般事務として働けるようになりますけれど、まだそのようになっていないためです。南三陸町や石巻、気仙沼なども同様です。また、今後は1つの産業に頼らず多様な産業を作ろうという取り組みも始めています。働きたい仕事の内容が自宅の近所にある、というように、住む場所と働く場所が揃うと、それは本当に復興したという状況になるのではないかと思います。

平尾 将来の宮城県の展望など、思いをお聞かせいただけますか?

小松 10カ年の計画をやり遂げることが1番のミッションです。特に、生き生きと働ける場をたくさん作りたい。震災が起きたことで不幸なことや悲しいこともありましたが、立ち直りつつあります。住む場所と働く場所が一体になるという、本来の暮らしを10年後には宮城県内のどの地域でも取り戻しているようにしたいと思います。例えば、県内各地にコールセンターがたくさんできて、女性や高齢者、若年層、どんな方々でもヘッドセットをつけて働けたら…。自身の暮らしと仕事が結びつき自活して暮らしていける、そんな宮城県になっていけたらと願います。

平尾 支援でお願いしたいことはありますか?

小松 1番は宮城県のことを忘れないでいて欲しい、ということです。震災から3年経ちましたし、どうしても年月が経つと記憶が薄くなっていくものですが「そういえば宮城県って震災があったな」「今はどうしているかな」と、少しでも気にかけていただけたら嬉しく思います。

平尾 当社が大規模コールセンターを初めて開設したのが宮城県です。これからもできるだけ多くの方々がコールセンター業界で就業していただけるよう、当社もますます貢献したいと考えています。コールセンター業界で働くことによって、これまで経験したことのない仕事に携わるきっかけになればと思っております。本日はありがとうございました。

【対談を終えて】

震災から丸3年経ちましたが、まだ鮮烈な記憶が残っています。
仙台コールセンターを何度か訪問していますが、仙台市内は震災前とほとんど変りなく、本当に震災があったのかという印象でした。しかし、実はまだ仮設住宅に住まわれている方々が9万人もいらっしゃる状況を伺い、宮城県全体として復興し得ていない現状を改めて認識しました。
2012年から情報産業振興室長になられて以降、大変お世話になっている小松さんとの対談を受け、当社が宮城県の拠点を大きくしていくことにより、雇用問題解消に貢献していきたいと強く思いました。


今回の取材にご協力いただいた
宮城県 震災復興・企画部 情報産業振興室 室長 小松直子氏のプロフィール
  • 1985年宮城県入庁。
  • 市町村の行財政指導、県の行財政改革や情報政策、生涯学習、環境、保健福祉政策などを担当。2010年に長寿社会政策課介護政策専門監。
  • 2011年に東日本大震災を経験し、高齢避難者の支援と仮設住宅の生活支援などを担当。
  • 2012年から情報産業振興室長、現在に至る。ITによる被災地の復興と地域IT産業の振興をめざし、IT分野の雇用創出や人材育成、IT企業の商品開発や市場獲得の支援を担当。
  • コールセンターの分野では、みやぎコールセンター協議会と連携し、人材確保や育成のためのセミナー開催、コールセンター認知度向上のためのPR作戦(ゆるキャラ「むすび丸」の活用)などに積極的に取り組んでいる。

◆宮城県
 →http://www.pref.miyagi.jp/


当社は「QAC震災復興支援マーク」を設けています。

 「QAC震災復興支援マーク」の使用開始(2011年04月25日)
 http://www.qac.jp/news/2011/04/qac_support_mark.html



・QAC震災復興支援マークA


・QAC震災復興支援マークB